「田山花袋」が絶賛した【寄居町鉢形城址と荒川の流れ(玉淀)】「田山花袋の漢詩碑」と紀行文「秩父の山裾」

寄居町の鉢形城跡の本曲輪付近に田山花袋(たやまかたい)の漢詩碑があります。
田山花袋(1872-1930年)は埼玉県の羽生を舞台にした『田舎教師』などの自然主義派の作品を発表し、
その代表的な作家の一人です。全集第16巻の中に「秩父の山裾(やますそ)」という紀行文があります。

「秩父の山裾」は
大正7年(1918年)坂戸から馬車で越生、小川を経由して
寄居、波久礼、長瀞という道のりを旅した事が書かれた文章です。
田山花袋はかねてから、堅牢な守りをを誇った鉢形城跡には
ぜひ立ち寄りたいと願い、この度のクライマックスの一つとしていたようです。
旅中の4月3日(同文中の神武天皇祭の日から)に鉢形城址を訪れ、
新鮮な感動を見事な文章におさめています。
またその雄大な眺めに胸を打たれ詠んだ漢詩がこの碑となっています。

以下「秩父の山裾」の文章抜粋を引用いたします。

私は考えた。(成るほどそうだ。成るほど上杉がこの城だけは何うする事も出来なかった筈だ。小川から越生を経て川越に通ずる路、即ち昨日私たちの通って来た路は、ちょうど要塞の中の路のような形を成しているのではないか。小川町の北を劃(かぎ:区切るの意)った)丘陵は、その自然の城壁を成して、その内部を窺うことを得せしめないようになっているではないか。北条方はいかにもその中で自由な連絡を取ることが出来る。鉢形のこの城を、上杉が持て余したはずだ。)(来てみなければ本当のことはわからない)
こうつづいて私は獨語(ひとりごと)した。

私たちはやがて、そこから荒川の見える疎な林の中に入って行った。
何とも言えない雄大なシインがそこに開けた。荒川は大きな渓谷をつくって、両山の間を激怒憤越ちて来ているのである。そしてこの鉢形の城址のある、その当時は立派な天嶮として役立った数百仭の一面の絶壁にあたって、大きく東北に弧線を描いて、そして関東平野へと流れ出ていたのである。長瀞の渓潭が好いとか、三峰に至る間の山水が好いとかいったとて、何うしてこれとは比較になろうと思われるほどそれほどその眺めはすぐれていた。私は敢えて言う、東京付近で、これほど雄大な眺めを持った峡谷は他にはない、と。

「襟帯山河好。雄視關八州。古城跡空在。一水尚東流。」

こうした詩が、ひとり手に私の私の頭に上って来た。
私は一時間以上もそこに彷徨した。感慨盡(つ)きるところを知らなかった。

この文章を読むと、この詩に表現されたのは
この地に対する感動を込めた最大の賛辞で有ることがよくわかります。

「襟帯山河好。雄視關八州。古城跡空在。一水尚東流。」

刻まれた見事な文字は、武者小路実篤の筆です。

皆様も是非、寄居町の鉢形城跡にお越しいただき、
田山花袋が旅し絶賛した鉢形城址と荒川の流れを味わってみてはいかがでしょうか。

鉢形城址についての過去の記事はこちらです。

・鉢形城跡を学べる施設「鉢形城歴史館」で楽しく学んできました。
・寄居町鉢形城が出てくる名作マンガ「花の慶次 -雲のかなに-」(作・隆慶一郎、画・原哲夫)を読み返しました。
・2020年3月15日 氏邦桜が見頃を迎えています。

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